『西洋建築建築家 手塚先生のご紹介』

カテゴリー : 建築家

下記文章は、手塚先生にお願いし、先生ご自身のことを書いて頂きました。次回、大府市での見学会に特別参加して頂くことになりました。

私は昭和30年、東京、港区でうまれ、以降結婚、長男が2歳になるまで港区(東京タワーのすぐ足元)から出ることはなく過ごしてきました。

幼稚園のころは、ダンゴムシをあの「玉虫の厨子」の玉虫の幼虫と信じてポケットにたくさん入れていたことがありました。
当時は結構自然もあり、今の六本木ヒルズの辺りには、秘密の池があってよくザリガニを捕まえたたりした思い出もあります。

おしゃべりで泣き虫だったようですが、手で何か作ることが好きで、粘土で飛行機(飛行物体)を気の済むまで、こねくり作り(自分で気に入った形が限りなく左右対称になるまで)永久保存するために冷蔵庫に隠したりしたことなんかを良く憶えています。

大人たちから嫌われるネズミが気の毒で、将来「研究」してネズミ語をしゃべれるようになり、彼らを諭し悪さをさせないようにすることなんかをかなり真剣に考えたりしていました。
中学生くらいの頃は、結構絵を描いたりものを作るのが好きで、ベニヤ板に木綿の布を張り、チューブに入った水彩絵の具とヤマト糊を混ぜた「特製絵の具」でルオーの絵のまねをしたりしました。

海が好きで、潮溜まりに棲む生き物達をずいぶん長いこと家の水槽で飼っていたこともありました。

将来は飛行機のパイロットか海洋学者になりたいと考えていました。
高校生位になると視力が1.5を保てなくなりパイロットを断念、海洋学者も少し不安になり、大学は文学部か建築学科がいいなと思うようになりました。(でも今でも、自由に空を飛ぶ夢を見たり、海洋学者にあこがれがあります)

大学は建築学科だったのですが、ヨット部に入り1,2年の頃はヨット部の合宿所から授業に出たりしたこともありました。
学校の授業に出るよりも海にいることか、学校の図書館にいることの方が多かった気がします。
図書館では、本を読みません。
高校の頃はもっぱら「禁貸出」の大判の画集、大学の頃は世界の建築家の「写真集」眺めるのでした。
社会人になると当然建築関係の仕事になるのですが、興味は「住宅」でした。

学生の頃は、あの写真で見るだけの建物の外観、内部に「ゾクゾク」するものをよく感じるのですが、その「理由」「原因」みたいなものがなんであるかを知りたくてしょうがありませんでした。

人の住む、暮らす建築、住宅はかたちも色も匂いも(実際、雨は匂いがします)すべて
人に何かを感じさせます。

安心、安全なおだやかな気持ち、思いやり、なつかしさ、そういったものを自分で考え、作る手伝い(自分の場合は紙に描く事)を「仕事」に出来ることにとても、やりがいと、ありがたさを感じています。

「仕事」には大変な試練もありました。
でも、「一番感動したこと」は思いつかないほど「感動」はたくさんあります。
これは、相手が本当によろこんでくれたときに出る笑顔に「感動」することであったり、一緒にそれをなしとげた仲間達との達成感を共有できたときの「感動」だからであります。

今住宅の仕事をしている「私の夢」は自分がデザインの手伝いをさせていただいた建物が皆、「有形文化財」に指定されることです。
これは「ネズミ語」の解読よりはるかに現実的なことだと思います。

「チームメンバーに一言」
我々はものをつくりながら、付加価値をつけたり、コストパフォーマンスを求めるのはもう当たり前のことだと思います。人も、自分も「感動」するような仕事をしていこうではありませんか。

2010年7月12日  手塚 大和

創業昭和四年 安城建築 浅井宏充

2010 年 8 月 11 日

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