空調
郡山 秀昭

チャレンジするために転職やがて天職に…

私は空調関係の会社に勤務しております。その会社での業務は主に戸建て住宅の仕事に携わっています。

引っ越しを繰り返し、家という物にあまり縁がないように思えた私が、現在家に関する仕事を行っていることに、どんな意味があるのだろうか、少し自分を振り返ってみたいと思います。私の幼い頃の記憶には、けんかする両親、物を壊して暴れる父の姿が残っています。

私の父は金型機械の技術を持った人間でしたが、人付き合いが下手でよく転職を繰り返していました。その上、一攫千金のギャンブルに狂い借金も多く、そのすべての負担が母に重くのしかかっていました。母は幼い私と弟を抱えて実家に帰ろうと何度か考えたそうです。しかし、その度に思い止まっては"どんな父親でも父親は父親は必要なのだから"と必死に耐えて私達のために頑張ってくれました。

そんな生活の繰り返しの中、父が奮起してくれるならと、母方の祖母が援助をしてくれて新築の家を購入したことがありました。私が小学校二年のときでした。母和末っ子で病気がちの体でしたのでそれを心配してのことでした。しかし、相変わらず働かない父のために、母は、ゴルフキャディーをして生活を支えてくれました。3年間頑張りましたが返済が苦しく結局手放すことになりました。引っ越しも夜逃げ同然でした。非常に悔しい記憶として残っています。このように引っ越しを繰り返していた影響か、内気な性格に輪を掛け、よくいじめられていました。また、中学生の時には所属していた町内剣道クラブの練習中に骨折をし、そのことを病院が町内に広めたため、私が言いふらしたとの注意を受け、大人の言葉に幼心を深く傷つけられ登校拒否になってしまいました。

この頃また父が転職をし、それにあわせて転校となり環境が変化したおかげで別の学校での再スタートが出来、何とか中学校を卒業することはできました。そんな時学校の担任から高卒の資格もとれ手当ももらえる職業内訓練校の話を聞き、某自動車会社の学校に入学しました。この学校は男子校で全寮制でしたので、ここから親元を離れた生活が始まりました。ここに集まってくる人は、家庭に何らかの問題を抱えて家を離れた人が多くいました。そんな人々との集団寮生活の中、上下関係も厳しく多くの仲間は、問題を起こして去っていきましたが、私は卒業することが出来、登校拒否だった自分も一つのけじめを付けた気がしました。この事は、今の自分にとって大きな財産となっています。
ただ自分がこうなりたい、こうしたいという意志をあまり持たずに自動的に自動車会社の社員となりましたので、"自分はこのままで良いのか。"という自問と"ここで頑張るんだ"という気持ちを繰り返す日々でした。

そんな日々を続け七年が経った頃転勤の話がありました。そのころ家族の再出発のため、両親と県営住宅で同居を始めていましたので、転勤を断り"何かにチャレンジしたい。"との思いから退職を決意しました。そこで現在の会社と出合いました。

車に関係ない仕事を条件に、空調機の会社とのことで決めましたが、就職してみると、工場空調のメンテナンス担当となり、昔自分のいた工場に行くこともありとても複雑な思いをしたこともありました。

ただ、自分の意志で就職したことによって、広く世間を知るきっかけにすることが出来たと感じており、後悔はしていません。

こんな時所属していた豊田支店と、隣の名古屋支社の統合により、営業に所属となり住宅に関わる仕事に就くこととなりました。いろいろなことを経験してきましたが、それらすべてが生きてくるように感じます。空調換気という仕事で、いろんなお客様と出会い、夢、希望をお聞きし、家を造る作業にたずさわる中で、作業に関わる多くの人と本当にいい物を作っていきたいと思いで日々取り組んでおります。私の過去の経験から、家という"物"だけではなく、家族に対しての憧れを強く持っています。その意味で関わった人々の笑顔が私の宝となっている日々です。"快適だよ""入れて良かった"等言われたときの笑顔は何にも変えがたいものです。これからも多くの笑顔と出会えるような社会との関わりを持っていきたいと感じています。