創業昭和4年。歴史のある安心の工務店の安城建築

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創業者 浅井 正一

中央が創業者浅井正一 (旧事務所前にて)

中央が創業者浅井正一
(旧事務所前にて)

終戦から7年目の夏、安城建築創業者浅井正一は大工の棟梁として多くの職人達と共に額に汗をかきながら仕事をしておりました。戦後の高度成長を肌で感じ、大工作業場拡大の急務を感じました。

昭和30年頃の作業場の風景

しかし購入代金の資金が無く、再三地方の銀行にお願いにあがりましたが、答えはどこも同じでした。「資産のないあなたに融資は出来ません」すべての銀行に断られ途方に暮れました。そして最後の望みを託して明治横山農協(現在のJA)の小野組合長に直接お願いにあがったそうです。組合長は暫く沈黙した後「浅井さんあなたの手を見せてください」と言われ、そっと仕事でボロボロの両手を差し出すと「う~ん、働き者のいい手だ、私はこの手を信じてみます。」と融資して下さったそうです。

後に創業者浅井正一はこの出来事を「今こうして安城建築が繁栄したのは小野組合長のお陰です。あのときのご恩は一生忘れる事はない」と話してくれました。



2代目代表社員 浅井 利一

2代目社長 浅井利一

2代目社長 浅井利一

家を造ると言うことは人生幾度も出来る物ではありません。

私達は、そこに住む家族はもちろん来訪される方々に至るまで、多くの皆様が幸せを享受できる住環境を提供し、また家族の絆を大切にし、「お客様から必要とされる会社」になるために、何をすべきかを、テーマにしています。

健康で明るく、しかも安心して生活をして頂くには、今日までに建築されたお客様からの、お褒めの言葉や反省談、失敗談などの貴重な声は私共の会社の宝であります。これまでに培ってきた経営基盤を礎に新しい技術力、ソフト開発力などの知的資源、人的資源を有効に活用し「物・技術」を提案させて頂きます。

創業昭和四年の歴史に恥じぬ様社員一同限りなく挑戦して参ります。


妻 浅井 正枝

妻 浅井 正枝

早いものです、浅井家に嫁ぎ36年が過ぎようとしています。三人の子供(男子)に恵まれました。

長男の育つ頃は大家族、大きいお爺ちゃん婆ちゃん、父、母、小姑(二人)住み込み従業員(二人)、主人と私に長男が誕生したのです。長男は痒い所にいつも手の届く環境にあい、とにかく甘やかしすぎ、中学生になると友達とつるみ悪さも度々、学校より呼び出しのある始末・・・もし長男の悪が直らないようであればみんなで考えてほしいと主人と話しあったものです。

本人は何を言っているんだ、たんたんと私に返した言葉、病気で言えば麻疹(はやり病)の様なものいつまでもこんな事はしとらん心配せんでいいと言ったのです。(現在二児のパパです)長男で悪の経験をさせてもらったお陰で二男高校卒業前にして私はこんなエッセイを綴っています。

朝からギターの音、そうです我が家の二男坊です。今日は長渕さん?それともまっさん(さだまさし)かな?試験中であれ大学入試であれ生活のリズムは変わらない一日が音楽で始まり音楽で終わる日々・・・

卒業を間近に思う、音楽もリズム、人生もリズムある時は跳び、ある時は歩調を取り、ときに飛躍して自分の奏でるメロディーで人生を築いてほしい!!今では二児のパパとなりまじめなサラリーマンをしています。 又三男、高校入学時の思い出エッセイです。

我が家の末っ子が高校生になり毎日遠い道のり(40分)を自転車で通学です。後ろ姿を見送りながら梅雨空様どうか一日降りませんように・・・イヤイヤ雨や風ぐらいでへたばるような子供では大人になれないなと勝手なことを考えている次第です。大家族の中で育ったせいか、めんどくさいことはダメ、とくに勉強は好まず、でも歴史は大好き、主人と歴史の話に花を咲かせときには自分の将来を語る成長ぶりに私も胸を張り、又あるときは伸びきったゴムのような一面を見て自分を反省する日々です。現在会社の手伝いをしています(海外設計依頼の連絡はアメリカで覚えた英語でコンタクトを取っています。)平成十年八月には32年間共に暮らした母が天国へ・・・・

米寿まで健やかに生き我が姑は二ヶ月病みて身罷り給う

お婆やんへの思い

今年も又寒い冬がやってきましたが、天国のおばあちゃん冬はあなたの出番でしたね、我が浅井家の婆ちゃんは若い頃より針仕事の好きな昔人間でした。年を重ね背は丸くなり、耳も聊か遠くなりましたが、自慢の目は若い頃よりよく見え生涯好きな針仕事をした人でした。体は小柄でしたが(ちなみに身長140㎝体重36㎏)それでいてとても丈夫でとても品の良いおばあちゃんでした。然し高齢と病には勝てず88才と三ヶ月米寿をむかえてこの世を去りました。亡くなる半年前までは人様の着物や半纏、袋物と大変器用でいろんな物を作ってきました。

おばあちゃんからプレゼントされた綿入れは冬ともなると大活躍です。親族、家族、友人みんながその恩恵にあずかっておりました。そして私が今着ている半纏も冬柄がとても可愛らしいゴリラの親子が遊んでいてその回りには大好物のバナナが散りばめられたプリント柄・・・

「よくもまあ・・・ドハデな・・・」と言われそうですが、私は洒落たガウンよりも暖かく肩の凝らない綿入れがとても気に入っています。

そうそうこの前の夜ね、お客さんが見えてね「良い物着ておいでるね。誰が縫われたね」大層ほめて呉れました。おばあちゃんが聞いたら感激だよねえ。私もとっても嬉しかったですよ。それからね先に旅立ったおばあちゃんが一番気にしている連れ合いの最愛のおじいちゃんは、毎朝元気にゲートボールに行っています。風呂上がりには勿論綿入れを着ています。”天国のおばあちゃん”今年の冬もみんなおばあちゃんの綿入れ半纏にお世話になっています。

大家族でスタートした浅井家も今は四人です。老父、主人、三男と私、いつも若い者には負けん意気ゴミの元気な老父ですが・・・・年です。

※独り居の静かすぎる老父の部屋大きな嚏の聞こえ安堵す(89歳です)

今日この頃、仕事の方はベテランの大久保さん(20年間)と嫁と二人が頑張ってくれています。お陰で趣味のフラも踊ることができ孫も四人幸せです。

※いつもより濃いめの化粧につけまつげ舞台で踊るフラが大好き
※地下鉄の窓に写れりおばさんは私の顔です58歳

2001年12月


浅井 宏充

代表社員 浅井宏充

代表社員 浅井宏充

コラム 輸入住宅マスター日記

西洋住宅に憧れて (冊子「職人さんありがとう」より抜粋)

私は大阪万博の少し前、浅井家15代目として安城で生まれました。小さい頃から両親は家業が忙しく家族で何処かに出かけた記憶はほとんどありません。小さな頃のささやかな想いでは、ひいお婆さんの乳母車で近くの公園までの散歩です。散歩の途中、三徳屋と言う駄菓子屋で三角ういろを買ってもらい公園のベンチで二人で食べました。幼稚園の年少組の時そんな大好きなお婆ちゃんが亡くなり初めて死とはどうゆうものなのかを身を持って体験しました。何でこんな事まで憶えているのか分かりませんが、お婆さんが亡くなってうろたえ動揺する家族、ベットの位置、あの日の出来事は今でも鮮明に憶えています。恐らく今までいつも一緒に遊んでくれた人が居なくなった出来事は想像以上に辛かったのでしょう。しかしこのお婆さんに愛情を一杯もらったおかげで今に至る私の人生の挫折時、分岐点では常に相談にのってもらい、いい方向に導いてくれていたと強く感じます。そんなこともあって子供達の名前もお婆さんの名前をもらい俊慧(としちえ)、政慧(まさちえ)としました。幼い頃の私は幼稚園が嫌いで、迎えのバスに家族が必死に乗せようと試みるのですがそれをすり抜けてバスを降り逃げまどっていたそうです。未だに事ある事にこの出来事を親に言われます。生まれて初めて好きな子が出来たのも幼稚園の年長で名前は伊藤美保ちゃん。何故かいつも意識していた想いでがあります。小学低学年時代はハーモニカが全然吹けなく相当嫌な思いをしました。不得意な事を無理矢理、しかも嫌々人前でさせられる事程、無意味で子供のやる気を失墜させる事はないと思います。そしてこの時から学校嫌いに拍車が掛かり始めた様な気がします。

「泳げ!たいやきくん」が一世を風靡した頃「♪毎日毎日僕らは鉄板の 上で焼かれて 嫌になっちゃうよ・・・♪」、(私もレコードを親に買ってもらった記憶が、かすかにあります。)私が小学校2〜3年生の頃でした。自宅から2〜4キロ程の所に、大池という池がありまして。友達と多分、自転車探検(友達同士で知らないところに行く自転車探検に、私とその友達は一時ハマっていました)にでも行ったかと思うのですが、その帰り道安城農林高校の北東に位置する場所だったと思うのですが、既に使われていない古い西洋建築の公民館か役場の様な建物を発見しました。その建物を見てとても形容しがたい懐かしいような、不思議な気分に浸ったような気がします。解体寸前の古くてボロボロの建物でしたが、凛としてすがすがしく子供の私には新鮮でとてもかっこ良かった。

小学校の頃に見たあの古い西洋館を見てから6〜7年後、中学校1年の社会見学で明治村を初めて見学しました。正面玄関を潜り、左手方向に行くとまず、三重県庁舎がありまして、一目見てその美しさに感動し、小学校の頃に見たあの建物を発見した時の事がふと思い出され、あの時と同じ懐かしい気持ちになりました。外壁は洋風でありながら屋根は和瓦であり普通に考えれば完全にチンドン屋のはずが和洋が完璧なほどマッチしているのです。完全に一目惚れ。中学生だった私には建物の価値など全く解らなかったし、何故これほどまでに折衷建築にひかれるのかも当時の私には分かりませんでした。

就職の際、家業の建築を選択するのか、どうしようかといろいろ考えたあげく建築を選んだわけですが、私の父親に「どこかいいところがあったら紹介して欲しい」と頼んだところ、一言「お前みたいな出来の悪い奴紹介できるわけないだろう」で、終わり。仕方なく就職情報などを見て探し当てたのが稲本住宅という従業員10人ほどの小さな会社でした。2×4なんてほとんどの人が知らなかった時代でしたが、稲本住宅では、その2×4をメインに手がけている会社で、そこで私は明けても暮れても材料運びとゴミ片付けの日々を送っていました。そんな私も研修でアメリカ・カナダの住宅視察に連れて行ってもらいました。その当時、地域の工務店が住宅の視察で海外なんて大変珍しかったんです。アメリカ・カナダの住宅、町並みは本当に美しかった。アメリカの町並みというと日本人の多くはハワイ旅行の石原裕次郎の家を想像されるかもしれませんが、それはアメリカ本土の住宅とはだいぶ違います。日本に帰ってからのギャップは大きかったですね。研修から帰りいつも思ったのは日本の町並みはどうしてぐちゃぐちゃになってしまったのだろうかといつも考えていました。しかし一週間の視察ではその答えは分かりませんでした。輸入住宅ブームが到来する8年前の事でした。

安城建築に入社して数年間いつも頭の片隅にはアメリカ・カナダの住宅の事がありました。どうしたらあの様なデザインが出来るだろう?あの様なデザインで日本サイズの設計が出来る設計士はいるのだろうか?多くの建築関係者達は「アメリカは土地が広いから大きな家が出来る。家のサイズに制限が無ければ日本でも同じデザインが出来る。」と言いましたがそれはウソだということは後に分かりました。またその頃JETORO輸入住宅の展示場が首都圏でオープンし始めたのですが、これが私が北米で見てきた物とは全く別物で、心の中で「あれは輸入住宅ではない、あれは輸入住宅ではない・・・」といつも思っていました。


輸入住宅が到来する1年ほど前の事だと思いますが日経新聞の中に輸入住宅に関する記事がありまして、その中の1社のモデルハウスの写真を見た瞬間「これだっ!」と思ったのです。小さいながら、1階の屋根から2階の大屋根まで一体感がありデザインはどこかしら懐かしさを感じるアメリカ・カナダで見た建物の完全なスケールダウンされたもの。一目惚れでした。早速オーナーの方にお会いし、話を聞いた処、「設計は日本人ではありません。アメリカ人です。」と、やっぱり!そのモデルハウスを見学させて頂いたのですが外観だけでなく内部までも北米のオープンプランニングを取り入れ、家族のコミュニケーションを本当によく考えてつくられていて、見ていてワクワクしていた事をおぼえています。初対面にもかかわらず3時間くらいぶっ続けで日米の住宅の話に花が咲き、最後にオーナーに「私の娘と娘ムコがこのモデルハウスを設計した先生のところでお世話になっているので、来週にでもアメリカに行ってみてください」と言われ、直ぐにアメリカへ旅立つことになったのです。

アメリカから帰国し、早速社長(現会長)に「安城建築の輸入住宅モデルハウス」の話を持ちかけました。しかし当初は「安城なんかで輸入住宅なんか建てたところで喫茶店かレストランに間違われるだけでこんな田舎ではダメだ」と、ほとんど私の言っていることに対して聞く耳は無いという感じでしたが、来る日も来る日もクドクド話をしているうちに社長の方が根負けしましてなんとかモデルハウス着工にこぎつけることができました。明治時代に日本諸外国から西洋建築を学んだ日本の職人達のように謙虚な気持ちでプロジェクトがスタートしたのです。



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明治村
安建クラブ結成
ドライウォール工法

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